名古屋地方裁判所一宮支部 昭和49年(タ)6号 判決 1978年5月26日
第六号事件原告(反訴被告) 甲野太郎
第一〇号事件被告 甲野はるこ
右両名訴訟代理人弁護士 南舘欣也
被告(反訴原告)第一〇号事件原告 甲野花子
右訴訟代理人弁護士 伊神喜弘
主文
一 第六号事件原告の請求を棄却する。
二 反訴原告と反訴被告は離婚する。
三 反訴被告は反訴原告に対し金五六万円を分与せよ。
四 反訴被告、第一〇号事件被告は反訴原告(第一〇号事件原告)に対し連帯して金二〇〇万円とこれに対する反訴被告は昭和四九年八月二〇日から、第一〇号事件被告は同月一六日からそれぞれ支払済迄年五分の割合による金員を支払え。
五 反訴原告(第一〇号事件原告)の反訴被告、第一〇号事件被告に対するその余の慰藉料請求を棄却する。
六 訴訟費用は三分し、その一を第六号事件被告(反訴原告・第一〇号事件原告)の負担とし、その余を第六号事件原告(反訴被告)、第一〇号事件被告の負担とする。
七 この判決は第四項に限り仮に執行することができる。
事実
第一第六号事件請求の趣旨
原告と被告は離婚する。
訴訟費用は被告の負担とする。
との判決を求める。
第二請求の趣旨に対する答弁
原告の請求は棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
との判決を求める。
第三第一〇号事件請求の趣旨
一 反訴原告と反訴被告は離婚する。
二 反訴被告は反訴原告に対し、金三五〇万円財産分与せよ。
三 反訴被告、被告は、反訴原告、原告に対し連帯して金一〇〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の翌日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
四 訴訟費用は反訴被告、被告の負担とする。
との判決並びに第三項について仮執行の宣言を求める。
第四請求の趣旨に対する答弁
反訴原告、原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は反訴原告、原告の負担とする。
との判決を求める。
第五第六号事件請求の原因
一 原告と被告は昭和四七年三月二〇日結婚式を挙げ、同年六月一四日その旨の届出をした。
二 原告と被告は見合結婚であったが、被告には原告と家庭を築いていこうという意思が見られず、原告の再三の注意にも拘らずその努力をしなかった。
三 昭和四八年七月二二日原告は親戚の人にも来てもらい、被告がどのようなつもりでいるのかにつき話合をしようとしたが被告はこれを拒み、来てもらった被告の両親も、原告の家族一同が皆で被告をいじめているとの一点張りで、話合にならなかった。
四 その後被告はあまり食事もしないようであったので、病気にでもなるといけないと思い同月二五日被告の意思に従い、実家に送り届けた。八月五日原告は被告を迎えに実家に赴いたが不在ということだった為帰ったら連絡をくれるよう依頼して帰宅した。翌日被告から電話がかかって来たが、公衆電話だったらしく通話中に電話が切れてしまい再度の電話を待ったが、結局かかってこずじまいであった。
五 更に同月八日被告の実家に電話し、一二日に原告の知人である丁野四郎宅へ被告を同道してほしい旨を依頼したが、前日に被告の姉より都合が悪いとの連絡があったので、同月一五日原告は右丁野と同道して被告の実家を訪ねたが、被告は又も不在であった。
六 その後二ヶ月余り経っても被告より何の音沙汰もないので、原告は一〇月一四日右丁野と共に被告の実家を訪問したが、被告の両親は右丁野に手を引いてくれと言い、原告が被告の居所を尋ねても教えない有様で途方にくれた原告は仲人の丙野三郎に話をしようとしたが、被告づきの丙野は二度も約束をすっぽかして会おうとせず話の進展につながらなかった。
七 更に一一月三日原告は、親戚の乙野二郎と共に被告に帰って来るよう話合に被告の実家に赴いたが、被告は不在で両親に被告の所在を教えてほしいと頼んでも連絡不能ということであったので被告に早く帰って来るよう伝えてもらうこととして帰宅したが、その後話合は一切仲人を通してするよう被告の父親から電話がかけられた。
八 そこでやむなく原告は、仲人を訪問し被告に帰宅するよう話をしてほしい旨を依頼したところ、仲人は被告の実家と話をせよといい出す仕末で、もし離婚ということにもなれば私が出て争うことになるからその積りでいてほしいと脅迫的言辞さえ弄する有様であった。
九 右の如き経過で原告は、被告と連絡又は話合しようにもその術がなく、被告からも何の連絡もなされない状態であったので、原告はかかる態度を平然と継続している被告とは最早婚姻生活を続ける意思はなく、又被告とても原告との婚姻生活を継続する意思を有しているとは認められないので、昭和四九年一月名古屋家庭裁判所一宮支部に離婚の調停申立をしたが同年四月八日不調に終った。
一〇 協調性のない被告の性格、実家へ帰ってから今日に至るまでの被告の態度は、原告が被告との婚姻生活を継続し難い重大な事由というべきであるから請求の趣旨通りの判決を求める。
第六請求の原因に対する答弁
一 請求原因一の事実は認める。
二 同二の事実中、見合結婚であった事実を認め、その余は全て否認する。
三 同三の事実中、昭和四八年七月二二日原告が親戚の人間を呼びよせた事実は認めるが、その余は全て否認する。
四 同四の事実中、昭和四八年七月二五日原告が被告を実家に戻した事実、八月五日原告が被告の実家に来た事実、そのとき被告が不在であった事実、翌日被告が原告に電話した事実は各認めるが、その余の事実は全て否認する。
五 同五の事実中、八月一五日被告が不在であった事実を否認し、その余の事実は認める。
六 同六の事実中、二ヶ月余り被告より何の音沙汰もしなかった事実、被告の両親が丁野に手を引いてくれといった事実、原告が仲人の丙野三郎に話をしようとしたが、被告づきの丙野が二度も約束をすっぽかして会おうとしなかった事実は各否認する。原告が一〇月一四日丁野と共に被告の実家を訪問した動機及び原告が途方にくれた事実は知らない。原告が被告の居所を尋ねても教えなかった事実は争う。その余の事実は認める。
七 同七の事実中、一一月三日原告が親戚の乙野と共に被告の実家を訪れた事実、そのさい被告が不在であった事実、原告が帰宅した事実、及びその後の話合は一切仲人を通してするよう被告の父親が電話をした事実は認めるが、その余の事実は全て否認する。
八 同八の事実は全て否認する。
九 同九の事実中、昭和四九年一月原告が被告を相手方として、名古屋家庭裁判所一宮支部に離婚の調停申立をした事実、及び同調停が同年四月八日に不調に終った事実は各認める。その余の事実は全て否認する。
一〇 同一〇の事実は全て争う。
第七第一〇号事件請求の原因
一 反訴原告と反訴被告は、昭和四七年三月二〇日結婚式を挙げ、同年六月一四日婚姻届を出した。
被告は反訴被告の実母であり、反訴原告の姑である。
二 被告の嫁いびりの開始
新婚旅行から帰った翌日から早くも被告の嫁いびりが始まった。
具体的には
1 嫁入道具の少いことを聞こえよがしに吹聴し、親族とともに嘲笑した。
2 「嫁のしつけは最初が肝心だ」「どんな無理をいわれても文句は言うな」そして「嫁は憎くてしようがない」といった。
又新婚旅行後、反訴原告が生理不順のため産婦人科を訪れたがそこで処女膜肥厚であることが判明し医師の勧めにより昭和四七年四月一八日から同月二二日まで入院して手術を受け、その後生理不順を治すべく通院していたところ、被告は反訴原告が夫婦生活できない事態を非難した。これに反訴原告が抗議すると、被告は激怒し親族を呼び、そこに反訴原告の両親を呼びつけ非常な恥辱を与えた。
三 その後の被告の嫁いびりの実態と反訴被告の同調、その具体例
1 反訴原告が、工場(織布)に入り働き始めてから、昭和四七年九月ごろからひどい綿ぼこりのため鼻、のどを痛めたり、機械的刺激により左右中指薬指をいため、物もつかめないほど悪化したりしたことがあったが、被告はいたわるどころか「よう太って丈夫だと思ってもらったのに、あんたは豚肥で弱い」と誹謗したりした。反訴被告は、被告に同調し、冬になり指先が割れ血が出たり、痛くてものがもてないほど状態が悪化すると「そんな妙な奴みたことがない」と言うのみで、血が落ちるためばんそう膏をしていると「そんなものしていると仕事ができん」と怒った。又、そのころ偶々、土間に二、三滴血がポタン、ポタンとたれているのを発見し、被告は反訴原告に全く身に覚えがないにもかかわらず「月経の血をポタポタ垂らして歩いて家中を汚している」と暴言を吐き、他人に吹聴したり、反訴被告に話したりした。これは、女性である反訴原告に対する許しがたい侮辱であった。
2 反訴被告方は、所謂本家であるため、反訴被告の義姉、義兄等が日曜の都度訪れていたのであるが、そのさい屡々、反訴原告が居合わせていることがわかりながら、被告は親族とともに反訴原告のことを「地味でだらしなく、嫁らしくない」等と嘲笑し、反訴原告の両親のことも「結婚前にいろいろな稽古ごとをさせておくといいながらさせていない」「商売の仕方が悪いからいつまでも貧乏だ」などと悪口をいっていた。反訴被告は、こうしたことが如何に精神的打撃を与えるか承知しながら、何ら適切な措置をせず、時には同調さえした。
3 反訴被告方には、同人の姉次子が同居しているが、反訴被告、被告らは、結婚後も外から働きに来ている人だと虚偽をいい、この事実を反訴原告に秘匿しつづけた。被告に至っては、反訴被告が結婚後二週間程経てからこの事実を告げた後も、あくまで他人ということで通し、結局紹介さえしなかった。これも亦、反訴原告としては我慢のならなかったことである。
4 反訴被告、被告等は、結婚前には一宮に嫁に行っている反訴被告の姉和子及び外から働きに来ている人(実は姉次子のこと)がいるから、身体の不自由な舅の世話と、電話番そして家事をしてくれておればよいといっていた。しかし、実際には反訴原告は、午前六時から午後一一時頃まで工場で働き続けた。これは、その他に種々な主婦としての雑用をしなければならない身では精一杯のことであった。しかし、反訴被告は朝寝したり、面白くないといって外に遊びに行ったりすることが屡々あった。被告は、こうした事態もすべて反訴原告が悪いからだと一方的に責め、反訴被告はこれに同調する有様であった。被告は、当初から一貫して「織屋は女の仕事だ、男が遊んでいても女はこまねずみのように働くのがあたり前だ」「うちの太郎さはおとなしいので、あんたに手をかけるようなことはしないが、どこでも嫁は殴られてもおとなしくハイハイといっている」「昔から女工を雇う時、食事をさせてみて決めたが、あんたもグズだ」「五時から起きて働け」等暴言を重ねた。反訴原告が、仕事着をもっていなかったので、月々五〇〇〇円ずつもらっていた小遣いからエプロン等作業着、それに間食、薬品を購入すると、被告は「ウチの某々は、二度しか小遣いをもらっていなかった。嫁入道具をたくさん持たせてやったので何も買わなくても良いので、小遣いは貯金しといて、わしに持ってきてくれたりした」「あんたは、何も持って来ていないので、何でも買わなならん。あんたんとこは貧乏で嫁入道具の借金がまだあるので、家へその金を持っていっとりやあすだろう。それで五〇〇〇円もやってまだ足らんのだろう」と罵しったりしたこともある。
5 結婚して三ヶ月ぐらいたつと被告は、反訴原告の料理を「虫が嫌っとるで、食べられん」といって食べず、間食をとったりした。そして、被告は「お前のつくったものみたい気持が悪くなるで食べられん」と侮蔑し、結局被告と炊事を交代した。しかし、それでも食事の後かたづけは反訴原告がしていたが、反訴原告が湯を使っていないのに「使った」「使った」と惜しんだり、茶碗がわれていると、反訴原告に身に覚えないのに、反訴原告のせいにし「ダラしなくて、そそうばかりしている」と近所の人、出入りの業者等に吹聴した。又、食事に関して「ほかっても、嫁にやるのは惜しいものだ」とか「食べろと勧められても嫁は遠慮してもらわんものだ」とも吹聴し、反訴原告は自由な気持ちで食事をとることも出来ず、月五〇〇〇円の小遣いでトマトジュース、クラッカー等を買って食べたり飲んだりする有様であった。
6 被告の言動は万事このようで、その外、次のようなことさえたびたび反訴原告に対し放言した。「オレは、太郎さに本当に申し訳がない。前から太郎さが気が合わんでイヤだイヤだと言うのを貰ってしまえばどうにでもなるからとすすめたのであんたみたいな人をもらって本当にすまんことをしたと思っている」「太郎さもわしらもみんなお前を嫌っている。もらったがそそうだでどうしようもないが、置いてもらえるだけでも有難く思わなあかん」「どんなできの悪い娘でもかわいいが嫁は憎いばかりだ。腐らかして捨てても何もやりたくないわ」等、こうしたことを被告が口にするとき、反訴被告は被告に同調して決して反訴原告に助け舟を出すようなことをせずすべて反訴原告が悪いといつでも言張ったのである。
7 反訴原告は、こうした嫁の人格を全く否定する被告の態度、そして被告に同調こそすれ反訴原告をかばうことをしようとしない反訴被告の態度にもかかわらず「年寄だから仕方がない」とあきらめ、できるだけ被告に楽してもらおうと心がけ工場の下働き、家事等を必死でした。朝六時から工場で働き始め、夜一〇時三〇分に工場の織機を止めた後、織機に油をさしたり、掃除をしたり、後かたづけをしたり、明日の準備などをし工場を出るのが一一時位で、それからなおも台所の後かたづけ、明日の準備をして最後に入浴して夜眠るのは午前一時になるのが通常であった。しかし、被告は少しでも気に障ることがあると、出鱈目に反訴原告を愚弄し、こうしたとき反訴原告が弁明弁解したりすると激怒し、たちまち反訴原告の実家に早朝、夜間を考えず電話をし、又、親族を呼んだりして大騒動をおこすのであった。そんな時、反訴被告は少しでも反訴原告に肩を持つどころか、被告とともに逆上し、反訴原告につめよる一方で、反訴原告の弁明弁解さえまともに聞こうとしなかった。
四 反訴原告に対する反訴被告、被告のこうしたしうちが続いたのであるが、昭和四八年四月ごろ、反訴被告の親族が集って話をし、反訴原告、反訴被告もいろいろ話合った後夫婦間の意思が疎通したことがあった。しかし、被告の嫁いびりは相変らず続いていたが、反訴被告は、反訴原告に対し仕事も親切に教え始めたので、反訴原告は急速に仕事にも慣れ、結婚後始めて気持よく毎日が暮せるようになった。又、それまで被告姑夫婦と反訴原告、反訴被告夫婦はともに同じ母屋に同居していたが、このころ反訴原告、反訴被告は離れに移った。
五1 しかし、同年五月下旬頃になると、反訴被告はおもしろくないといって食事も被告等ととりしだ、テレビをみたり、話し込んだりしては仕事をしないことが多くなってきた。そして、仕事はその間は反訴原告が一人でやっているのだが、偶々織機の調子が思わしくなく時々自然に停止して糸が切れたり、事故が発生した。又、反訴被告が夜ふかしをしたり、飲み遊んだりしたりすることも多くなったのである。しかし、こうした事態の責任はすべて反訴原告にあるとし、反訴被告及び被告は一方的に反訴原告を責め続けた。
2 そして、反訴原告は食事を始めとしてほとんど一人で過ごし考える気力さえ喪失してただ動物のように午前六時から午後一一時迄工場で仕事をしていたのである。こうしたとき反訴原告が反訴被告に対し、去る四月にお互いに意思が疎通しあったときのこと、そのとき言ったようにやってくれというと怒り出し「顔もみたくない、仕事もしなくてよい」といいだした。そして、反訴被告と被告の了解をえて外で働くことにし、一宮及び名古屋の職業安定所に出かけ職捜しをした。五月三一日心当りのところをみつけたが、反訴被告に相談して決めようと帰ったが反訴被告は朝まで部屋に帰って来なかった。翌朝被告がいきなり部屋に入ってきて「わしの許可もなしにかってにどこかに出ていったりして勝手なことをしとる」「そんな者家に入れてもらえなくてもあたり前」と大声でわめき始めた。そこで反訴原告が「すべて反訴被告の許可を得て外出し、許可を得て事を行っている」と弁明すると、なお一層怒り「太郎さが何いっとる知らんが、わしが絶対許さん」「織をよう織らんようなものは要らん。よう置いとかんで出ていっとくれ」とわめき散らしたのである。
3 六月一日頃の早朝(午前七時前)被告は仲人をした丙野三郎に電話をし「実は丙野さん、しまったわなも、先生をもらって、女工をもらっておかなければいけなかった」と、反訴原告を離婚させる旨示唆した。これに対し、丙野三郎は「一年もたった今日そんな話を聞くのは始めてである。こんな話は電話ではいかん。直接きて話をしてくれ」と答えたということである。そして、被告は親族に来てくれるよう招集をかけ、一方反訴原告に対し「あの丙野のうそつきめが、お前みたいなできの悪い奴をようおしつけやがった」と電話したら「離婚にでもなったらお前のとこのしんしょうを全部とってやる」といいやがった。お前のところはあのとおりつましいので、最初から丙野とグルになって、わしんとこのしんしょうをとるつもりだったんだろう。知っとる人々であいつに、やはりお金をとられてひどい目にあった人がいると、聞くに耐えない誹謗中傷をした。そして、被告は更に「あんたはどう思っとる知らんが、親戚の者が言っとったが、女みたい離婚してもせいぜい荷物を返してもらえるだけだ、そうだ」とも、わめき散らした。
4 そして、翌日は、被告は反訴原告に対し「どこへ行くこともあいならん」と何度もわめき、部屋にとじこめられた。そして、反訴被告は被告と一緒になって、共に反訴原告をせめるのであった。そればかりか、親戚の反訴被告の姉の婿の乙野もおとずれ、反訴原告に対し「太郎さが、いくらいいと言ったって新屋ではないから、おっかさんや、わしらがいるうちは勝手なことはさせん。織屋は女の仕事だ。男は準備さえすれば、遊んでいてもよい。女は黙って織さえ織っておりゃいい」と、すごい形相で怒った。
5 こうして、反訴被告、被告そしてその親戚達は文字どおり一緒になって、このころになるとほぼはっきり反訴原告の追い出しの意思をもつに至ったのである。
六 ていのいい実家への戻し―離縁の前段階事実の進展とそのきっかけ
1 こうしたことのあった後六月が終って七月となった。七月八日被告とともに買物に行き、同被告の好みの浴衣用反物を買い、七夕祭までの間に仕上げようと心づもりをしていた。しかし工場の仕事が忙しいため、日曜日も仕事をせねばならなかったり親族が訪れてきて、その接待をせねばならなかったりして、全く浴衣を縫う時間がなかった。そこで七月一五日から一九日の間に工場の仕事に少々さし障りがあるとは考えたが、反訴原告としては食後の休憩時間、仕事終了後に夜なべをするなど、仕事には極力さし障りのないよう浴衣を作りにかかった。しかし、この反訴原告の好意がかえって思わぬ仇となり、被告が工場の仕事にさし障りがあると言い始めた。そこで反訴原告は反訴被告に事情を説明し、反訴原告に代って二、三日の間だけ工場の仕事をしてくれるよう頼むと反訴被告はかえって「手のろい。いつまでかかってやっている。こんなもん作らんで仕事をせよ」と言い、協力しようとしなかった。
2 こうして、七月二〇日には被告に縫い上げた浴衣を渡した。しかし、その間、反訴原告が工場の仕事をあまりしなかったと反訴被告、被告ともども言い始め、七月二一日早朝、被告は反訴原告の実家に反訴原告をしかりに来るよう電話した。反訴被告も亦同日九時頃反訴原告の実家に「ちっとも言うことを聞かん」といって電話した。
3 そして、同日の仕事を終えてから午後一〇時三〇分頃、反訴原告の実家を反訴被告は反訴原告をともなって訪れ、そこで「少しも協力しない。こんな風ではおいておけん」と散々いい散らし、更に「今日は、花子を乙山において帰る」と言い切った。
4 しかし、反訴原告はかかる反訴被告の態度は到底納得できなかったので「とにかく仲人の丙野さんに話を聞いてもらおう」と話し合い、反訴原告の実父が夜明けに丙野三郎に電話した。この電話のとき反訴被告が電話を代りいろいろ話をし「仲人さんが明日市役所に来る」と言っているので、ということでそのときは反訴被告は、反訴原告をつれて帰ったのである。反訴被告は帰途の自動車の中で「仲人さんが出向いてくるといったのでつれて帰るだけで、本当はこのまま乙山へ帰ろうと思っていた」といっていたのである。
5 ところで、ここで触れておかねばならぬのは、丙野三郎は反訴被告との話合いで、明日△△市の市役所に来るので、反訴原告の実家に来てくれという連絡があれば、乙山の反訴原告の実家へ行くというつもりであったが、反訴被告の方は丙野が××市の市役所に行くから、当然反訴被告方を訪れると誤解していたという点である。
6(一) そして、反訴被告、被告はかかる誤解にたって翌七月二二日親族一同を呼び集め、丙野三郎が来るのを待っていたが丙野三郎が来ようはずもなかった。この日朝から反訴被告は、反訴原告に対し仕事をするなと言いはり、非常なけんまくでまくしたてたので、反訴原告が部屋にいると、先に述べた乙野が母屋にいた反訴被告、被告と話し合ってから反訴原告のところに来て「三人とも本気であんたを乙山に帰すつもりでいる」などと話し「ちょっと話があるのでうちまで来てくれ」といったので、乙野について同人の家に行った。すると同人は反訴原告に対し「三人がいろいろな人に相談し、又、八卦にみてもらったら、あんたと太郎さは相性が悪いということがわかった」「まだ子供もないのでわかれた方がいい」「あんたがいっているように、本当に太郎さのことを思っとるのなら、自分から身を引くのが本当は当り前だ」等々、述べ露骨に離婚することを勧めた。
(二) 乙野は更に「実家の家族と話し冷静に考えて来い」といい、反訴原告の実家に帰る必要はないとの言分を全く認めず、強硬に反訴原告が実家に帰ることのみを勧告した。結局、反訴原告は根負けし、連日の睡眠不足と食欲不振のため身体を休めてくるという趣旨からということで実家に帰ることに同意した。すると乙野は反訴被告に電話をし、同被告は乙野方に来、このまま反訴原告を実家に送り届けんと乙野方を出た。
(三) しかし、車中で反訴原告は反訴被告の真意を十分聞きたいということで実家に帰さすのを少し待ってくれと頼み、反訴被告はこれをうけ入れ反訴被告方に帰り、一晩中話し合ったのである。
7 しかし、結局は七月二五日身体を休めるということで反訴被告が反訴原告を実家に送り届けてしまったのである。
七1 反訴原告は実家で二、三日いたが七月二七日になり、いつまでも休んで迷惑をかけてはいけないと考え、夕食後反訴被告方に帰った。しかし、被告は反訴原告が帰ってくるのをみると「一人できたか。どういう気持ちできたか。親族会議でわしも親戚のものもみんなあんたや乙山の両親とは末長くつきあっていけないので、この際返すことにしたのだ」「籍を抜いて荷物をとりにくるよう電話しようと思っていた」と暴言を吐き続けた。そして「これからすぐに太郎さに送っていってもらって乙山へ帰っていけ」と言葉を荒げていうが、反訴原告はそのまま部屋に入った。
2 すると被告は部屋に来て「今日は絶対ここで寝させん。ここは次ちゃんの部屋であんたの部屋でない。あんたは何にももってない」とわめき始めたので、反訴原告もあまりの言に腹をすえかねやむをえず部屋に鍵をした。午後一時三〇分頃になると反訴被告が前記乙野とともに来て「乙山に帰れ」と強要しはじめ、遂には反訴原告の実家に電話し、父母を呼びつけた。しかし、反訴原告は納得のいかないことには従うわけにはいかないので、そのまま部屋にいると反訴被告と前記乙野は怒り、無理矢理反訴原告を部屋から引きずり出し母屋の親戚一同の集っているところに連行した。
3 反訴被告、被告それに親戚の者達はよってたかって実家に帰るよう強弁したが、反訴原告は「自分の気持を確めて努力するつもりでいるので、乙山へ帰ってこれ以上考える必要はない」と言うと、反訴被告、被告等は怒り出し種々の罵声をいい放った。
4 翌七月二八日になり、反訴被告、被告等は「受け入れ体制がないので、いてもらうわけにいかない」と強硬に言うし、一方実父母も一度帰ったらと勧めるので、反訴原告はやむをえず荷づくりをして実家に帰った。
八 反訴原告が実家に帰った顛末は以上の如くであり、反訴被告、被告はほぼ離婚させる意思で以って、強硬に追い出したというのが真相である。
被告の異常なまでの嫁いびりに始まり、反訴被告も一時期は反訴原告をかばったことはあったが、終始被告に同調し、あげくの果てには親族までまき込んで追い出したのである。嫁といえども姑そして夫と対等な人格であり、それ相応に尊重されるべき存在であるのに人格を無視する言動と取扱いを執拗に続け、あげくの果てに追い出すことは明らかに違法な行為といえる。
九 その後の経過
1 八月六日、反訴被告が反訴原告の実家を訪れた。当時、反訴原告は実家に世話になるのが精神的に極めて大きな苦痛であったので、○○町の叔母の所に滞在していたので不在であった。翌日実父より反訴被告の方へ連絡するよう連絡を受けたので反訴原告は公衆電話から反訴被告に電話した。すると電話に出た反訴被告は丁野某に会って話をしろというのみで反訴原告が「あなた自身の考えがはっきりきまり迎えにきてくれるのを待っている。あなたの気持はどうなのか」と反訴被告自身にその真意を問い質したがそれに答えなかったので、反訴原告は「今までの繰返しはしたくないから丁野と会う必要もない」と自己の意思を表明した。ここで時間が切れて電話が切れたというのであり、決して再度電話しないからということで非難される余地はない。
2 八月八日反訴被告より反訴原告の実家に電話がかかり、一二日に反訴被告の知人である丁野方へ、反訴原告を同道してほしい旨依頼があったが、一二日は反訴原告に於て都合が悪かったので、その旨反訴被告方へ連絡した。その後反訴被告の方から一五日午後二時反訴原告の実家に行くから、反訴原告はおってくれとの連絡が入ったので、同原告は同日の昼過ぎに実家に来て、反訴被告等を待った。しかし、約束の午後二時になっても来ず、その後反訴原告は午後五時までまったが、依然来ないばかりか連絡さえなかったので両親に一任して実家を退出した。その後反訴被告は丁野を伴って午後一〇時三〇分頃になってやっと実家を訪れ、丁野は「太郎に一任されて一緒に来た」旨告げ、専ら同人が話をしたがその内容は半ば反訴原告に離婚せよというものであった。反訴原告の両親は仲人の丙野三郎が間にたった方がいいという考えを述べた。この間反訴被告は口を開かなかった。
3 このように反訴被告は丁野を前面にたてだし、同人に反訴原告、反訴被告がこのまま結婚生活を続けるか否かの判断を任せるという態度であったが、こうした趣旨には反訴原告は到底賛成しかね、一番大事なのは反訴被告の気持だと考えていたので、反訴被告の丁野と会って話し会えとの要求には応じられず丁野には一切連絡はしなかった。こうして反訴原告は反訴被告が夫として迎えに来てくれることを心まちにして過していたのである。
4 一〇月一四日になって反訴被告が丁野をまたも伴って反訴原告の実家を訪れ、丁野は更に強く反訴原告が離婚することを暗示勧奨した。しかし反訴原告の両親は前記反訴原告の意思を伝えるとともに、大切なのは当人同志の話合である旨強調すると丁野はそういうことならこの件から一切手を引くと反訴被告の前でいった。こうして丁野は一〇分ぐらいで退出した。この間、反訴被告は挨拶すらせず、反訴原告の両親には一言も話をしないという有様であった。
5 一一月三日午後一一時頃、反訴被告は乙野とともに、反訴原告の実家を訪れ、家の中に入って立ったまま「花子に帰ってきたければ帰って来い」と半ば捨てぜりふを言い、実父及び実姉が「座って話をしていって下さい」と勧めてもこれを拒否し「その言葉はどういう意味ですか」「どんな気持で迎えに来て下さったか」と聞いても一切答えず、そのまま表に出、自動車に乗ってそのまま走り去った。その間全部で五分にもならず実父と実姉は一瞬の出来事で呆然と見送ったのである。
一〇 その後、翌昭和四九年一月になると、突如名古屋地方裁判所一宮支部から離婚の調停の呼出しがあった。ここに反訴原告は反訴被告、被告等の離婚して追い出そうとの意思を明確に知り得、七月に実家へ預けられたこと、その後の反訴被告、被告等の出方がすべて反訴原告を離婚させるという一点に集約されて展開されてきた事実を改めて認識したのである。そして遂に反訴被告は本訴離婚の訴を提起したのである。
一一 以上の経過に照してみれば、反訴被告が反訴原告をていよく実家に送り戻した行為は悪意の遺棄というべく、又反訴原告と反訴被告の婚姻関係を破綻させた責任は、反訴被告及び被告にあること明白である。又、結婚当初からの被告の人格を全く無視した言動は到底許容できず、反訴被告の同調は、それにもまして許し難いのである。それにもかかわらず、あげくの果てはていよく実家に送り返し、その後は丁野なる人物をたてひたすら離婚をせまってきた事実、そしてそれが反訴原告の容れるところでないことを知るや訴訟に訴え、しかもその中で婚姻破綻の原因を一方的に反訴原告におしつけ、離婚を貫徹しようとしている態度は、明らかに故意による不法行為といわなければならない。
一二1 よって、ここに理由もなしに実家に追い出した点において悪意の遺棄として、又反訴原告は反訴被告に有責の婚姻破綻者として、いずれも離婚事由に該当するので離婚を求めるものである。
2 又反訴原告は、昭和四八年七月二〇日頃までは一貫して一年五ヶ月余り朝六時から夜一一時まで、工場の生産に従事し、又反訴被告、被告等家族のため家事労働にも従事していたのであり、反訴被告は女工一人と家政婦一人を一年五ヶ月余り雇ってきただけの財産的価値を増し、或はその減少を免れえたはずであるので、ここにそれらの相当分を財産として分与することを求める。そして、女工といえども午前六時から午後一一時まで働かせれば月金一〇万円は下るはずなく、家政婦を雇った場合にも金一〇万円はこれ亦下るはずがないので、金二〇万円一年五ヶ月金三四〇万円相当額を財産として分与することを請求する。
3 又反訴被告、被告の結婚以来の筆舌に尽せない人格無視の言動、そのあげくの果てが、ていのいい実家への追い戻し、それに引き続く理由なき離婚のつきつけは、江戸時代の三下半の離縁状のつきつけにも等しい違法、不当な行為である。これでは結婚して以来一に女工として二に家政婦として三に娼婦として貴重な青春と貞操を棒げてきただけという結果になる。それによって蒙った反訴原告の肉体的、精神的(貞操をも含めて)な損害は少くみつもっても金一〇〇〇万円であり、反訴被告、被告は共同不法行為者として、連帯して金一〇〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の翌日から支払済まで民事法定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
第八反訴等請求の原因に対する認否
一 請求原因一の事実は認める。
二 同二中受診断並に入通院の事実は認めるが、病名並に期間は不知、その余は全部否認。
三 同三中1反訴原告は皮膚が弱かったようで、指にばんそうこうを巻いていたことはあったが、その原因は知らない。そのようなこともあり、被告が原告に半ば冗談まじりに「太っているのに弱いね」と言ったことはある。又、玄関と風呂場の入口に血のかたまりが落ちていて、それが生理の血であることは女性であれば一目で判るので被告が反訴原告に「気をつけないといけない」と注意したことはあったが該事実を他人には無論反訴被告にさえもらしたことはなかった。その余の事実は全部否認する。
2は全部否認する。尚義姉等が訪ずれることはあるが、毎日曜などということはない。
3につき次子は気が少さく自分で嫁には行かないと言って家業を手伝い既に四〇才をこしているということから何となく反訴原告の手前ひけ目を感じ、反訴原告から問われることもなかったので、あえて紹介をしなかったというのが真相で別に他意があった訳ではない。反訴被告が反訴原告に姉である旨告げてからも被告が次子をあくまで他人ということで通したなどという事はあり得ないことであり否認する。
4中月五〇〇〇円の小遣いを反訴原告が受取っていた事実を認め、他は全部否認。
5中炊事を被告と交代した事実を認め、他は全部否認。反訴原告が工場の手伝いをするようになってから反訴原告は、炊事より工場の方がいいと言い出した為交代するようになっただけで反訴原告の意思を尊重した結果である。又茶碗類を割ったりすることが多く、そそうしないよう反訴被告が注意したことは二度三度にとどまらない。
6、7は全部否認。
四 同四中離れに移った事実は認め、他は不知ないし否認。
五 同五中1は全部否認。
2中反訴原告が外で修業すれば性格が少しでも良い方向へ変るかもしれないと、あわい希望を持って外で働くことを勧めたことはあるが、結局働かずじまいであった。他の事実は全部否認。
3中丙野宅へ一度話を聞いてもらえないかとの電話を被告がした事実、被告の話も聞かないで丙野が「離婚ということになったらしんしょう全部とってやる」と脅迫したこと、を認め他は全部否認。
4、5は全部否認。
六 同六は1のうち反訴原告が被告と共に浴衣用反物を買いに出た事実を認め、他は全部不知ないし否認。
2ないし6は全部否認。
7のうち七月二五日反訴原告を実家に送り届けた事実を認め、他を否認。
七 同七の事実は全部否認。
八 同八の主張全部争う。
九 同九のうち1は反訴原告から反訴被告に電話があった事実のみ認め、他は全部否認。
2のうち八月八日の電話の内容、並に一二日には行けない旨の電話連絡が僅か一日前の一一日に反訴原告の姉からなされた事実を認め、他は不知ないし否認。
3は全部否認。
4のうち反訴原告主張日時に反訴被告が丁野と共に反訴原告の実家を訪問したこと、丁野が手を引くに至ったことを認め、他を否認。
5のうち一一月三日反訴被告が乙野と共に反訴原告の実家を訪問した事実を認め、他を否認。
一〇 同一〇のうち調停並に本訴提起の事実を認め、他を否認。
一一 同一一は全部否認ないし争う。
一二 同一二は1を否認し、2のうち反訴原告が工場の手伝いをしたこと、家事労働に従事したことを認め、他は否認ないし争う。3は全部争う。
第九証拠《省略》
理由
《証拠省略》によると
被告花子は昭和四六年三月犬山市○○中学の教師を退職し結婚に備えて家事一般の修業をしていた。一方原告は被告はるこの四男で親許で織物の家内工業に従事していた。原告と被告花子は昭和四六年夏頃丙野三郎の紹介で見合し、暫らく交際の後昭和四七年三月二〇日結婚式をあげ、同年六月一四日婚姻届をした。挙式のあと九州へ新婚旅行したが、被告花子は処女膜肥厚のため性交が成らず同年四月一八日大脇産婦人科でその手術をうけ、同年六月頃迄引続いて通院治療をしていた。ところがその間被告はるこは同居している被告花子に対し「着物をみたけど何ももっていない」「化粧品は何も持っていない、鼻紙や洗剤さえも家のものを使っている」「どんな出来の悪い子供でも可愛いが嫁は憎い、来たのがそそうだ」「嫁は食べろと言われても遠慮するもんだ」「あんたは太っていて大丈夫と思ったが豚肥で取柄がない」「実家へ行くときは伺いをたてるものだ」などと罵しり、訪れた親族に対しても「嫁はブスッとしている、可愛気のない嫁だ」などと陰口をし、被告花子にも直接「実家はまだ嫁入道具を買った借金が残っている」「小遣を実家へもっていっている」などと嫌味を言った。更に同年六月頃に至り「何のために病院へ行くのか太郎は何もいわず黙っているが子供の出来んような者は昔から別れることに決っている。実家へ戻されても仕方がない」などと言い出したので被告花子がこれに抗議すると被告はるこは怒って被告花子の両親を電話で呼びつけ被告花子のことを「茶碗は割るし、地味な女で新嫁らしくない、相返答も出来ない、何一つとして取柄のない出来の悪い嫁だ、何をやらせても遅い」と非難し色々注文をつけた。そのあと被告花子は被告はるこから嫁は朝早く起きて働くものだと命ぜられたので家業である機織りに従事し、合間に家事をみるようになった、ところがその頃被告はるこは高血圧で被告花子の作った食事が口に合わないと言い出したので炊事を被告はること交替した、それで被告花子は一層機織仕事に精を出し織機の騒音の中で朝六時から三食の時間を除き午後一一時頃迄働いた、そのため、同年九月頃から指が腫れ出血したり物がつかめないようになった。そういう時の同年冬頃被告はるこは土間に血が落ちていたことを把えて被告花子が月経の血を落している、新しい家を汚すつもりかと叱言を浴びせたばかりでなくこのことを親族にも吹聴した、昭和四八年三、四月頃原告が被告花子に対し「態度がちっとも変らん」と文句を言い出し、被告はるこもこれに同調したので被告花子が弁解し反抗したところ被告はるこは激昂し被告花子の体をつきとばし家においておくことはできんとまで言った。そこで被告花子が原告に母親らと別居し、自分は外へ働きに出ることを申出たところ原告は何とか我慢してやってくれと説得し、離れの部屋へ移ることを実現し、それ以後被告花子に優しく当り、機織りの仕事も親切に教え夫婦間は順調だった。ところが同年五月過頃から原告は面白くない、お前(被告花子)の顔など見たくないで働けんといって酒を飲みに行くようになったので、被告花子がそれでは自分が外に出て仕事をすると一宮市内へ職探しに行ったところ、これを被告はるこが取上げ太郎はどういうかしらんが機を織らん人間はこゝにおいとけん、太郎もお前を嫌っているがこの家においてもらえるだけでもいいと思えと怒った。そして原告の姉婿である乙野二郎からも女は家庭にいてコマネズミのように働くのが普通だ太郎がどう言おうと機織らんものは私ら親類のものとして許せんときつく言われたので被告花子は妻として一層努力する旨誓うことでその場は治まった。被告花子は被告はるこから服地を買ってもらった礼に同年七月上旬頃同被告に着てもらおうとユカタ地を買求めて仕事の余暇に縫上げていたところ、原告や被告はるこから工場に入らん、そのため機械の止ることが多かった、ブスッとしている等と叱られた挙句同月二一日被告はるこから被告花子の実家へ花子が朝起きるのが遅いので叱りに来てくれとの電話があった。しかし両親が来なかったので原告は被告花子をその実家までつれていき両親に今朝のことで母が納得しないからお父さんに来てもらいたかったと言った。父親は夫婦間のことだから原告が仲に入ってうまくやってくれと頼み、仲人をつとめた丙野三郎に電話で相談したあと同人と原告が電話で直接話合った結果明日仲人が来るといっているからといって被告花子と共に帰った。二、三日して被告花子は乙野二郎から八卦に見てもらったところあんたと太郎は性格が合わんことがわかった、まだ子供もないので乙山(花子の実家)へ帰った方がいい、太郎のことを思うなら自分から身を引くのが当然だ、乙山へ帰って親と相談してこいなどと言われたのでやむなく体を休めてくるということで実家へ帰ることを承諾した、その夜原告と話合ったところ原告も飯を食わず仕事もせんから家へ帰って休養してこいという意見だったので同月二五日原告に送られて実家へ行った。被告花子は二日間休養した後午後九時過婚家へ戻ったのであるが玄関へ入るや否や被告はるこから「あんたは一人で何しに帰っていたのか、あんたの家族とは末長く付合えんので皆で相談してあんたをすぐ帰すことにした、今荷物をとりに来るよう電話しようと思っていたところだ、あんたのいない間気分よく生活できた」などと言い、早々に離れ屋へ引こもろうとした被告花子を追って更にこゝは次子ちゃんの部屋だからあんたは寝かせんと繰返し言うので被告花子はたまりかねて部屋に鍵をした。午後一〇時半頃になり原告と乙野二郎が乙山まで送ってやるから帰れといってきたが被告花子は部屋に閉じ込もったまゝ帰る必要はないと断った。すると深夜に拘らず被告花子の両親も呼寄せ、原告の親族が集まった席へ呼出され、原告の両親、乙野らから散々非難の言葉を浴びた上原告迄が受入体制がないので家にいてもらっては困ると言った。そのあと原告と被告花子で話合った際も原告は今受入体制がない、そのうち乙山へ迎えに行くからそれ迄待っていてくれと言った。それで被告花子は原告の言を信じて二八日実家へ戻り、世間の目を憚りながら暮すことになった。同年八月上旬になり被告花子は原告から丁野四郎と会ってくれ、同人に夫婦の今後のことを判断してもらうからとの電話を受けたので夫婦のことは当事者で解決すればよい、今迄の繰返しはしたくないので同人とは会わない旨答えた。それから同月中に二回原告から連絡があり二回目のときは午後二時頃乙山へ行くからという話であったので被告花子は実家で待っていたが午後五時過ぎても現われないので当時身を寄せていた叔母の家へ帰った。そのあとの午後一〇時半頃原告と丁野四郎が訪ねてきたので被告花子の父と色々意見を出して話合ったが原告は寡黙だった。同年一〇月一四日再び両名が来たが、父親が余人を交えず当人同志話合いさせたいと言うと丁野はこの件から一切手をひくといゝ、原告はその間無言のまゝ立去った。更に一一月三日にも原告が被告花子の実家へ来たが、前向きの話はなく帰って来たければ帰って来いという言方であった。その言葉はどういう意味かどんな気持で迎えに来たのかと被告花子の父親が尋ねても返事はなかった。右のように原告は都合三回被告花子の実家を訪れたのであるがいずれも同被告と会うことができなかった。同被告の両親としては原告の態度が右の如く誠意に乏しく、婚家の受入態勢に不安を覚えたので花子を戻してやる気持にならず又あえて同被告の居所も明かさなかったものである。その間原告は事態打開のため仲人の丙野三郎と交渉をもちたいと働きかけたが疎通できなかった。被告花子からその後原告に対し何らの連絡交渉もなく推移したゝめ原告は昭和四九年一月に至り離婚の家事調停申立、同年四月離婚の本訴をなし続いて同年八月被告花子から離婚の反訴があった。
以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
被告はるこが被告花子との同居を拒否し原告も又これに同調する意思を表明したことにより昭和四八年七月二八日被告花子は原告と別居のやむなきに至ったことは右にみたとおりであるが、それから程なく原告から再々被告花子の復帰を求める働きかけのあったことに鑑みると原告が被告花子を悪意により遺棄したとまで断ずることはできない。
《証拠省略》中にはアパートを見つけて原告夫婦が被告はること別居する案を示して被告花子の復帰を求めた旨の部分があるが《証拠省略》に徴するとその際原告の意思はどうかときかれたのに原告は積極的な応答をしなかったことが認められるから原告自ら両親と別居するまでの決意があったかどうかも疑わしくこのようにして何ら事態の改善なく被告花子が原告の許へ戻り被告はること同居するにおいては再び家庭内に摩擦を来すこと必至と予想されたから原告の復帰の求めに対し被告花子やその両親が原告の受入態勢に不安を感じ容易に同居に応じなかったのは当然である。
ところで原告は被告花子が協調性がなく原告の再三の注意にも拘らずその努力をしなかったと主張し《証拠省略》中には被告花子が返事しない、朝起が遅い、陰気くさい点などについて再三注意したが改善されなかった旨の部分があるが、被告はるこは被告花子に対し前記認定のように悪罵、干渉を行い、原告も又これを抑制するどころか同調して被告花子の努力を認めず反抗すると直ちにその両親を呼つけて親族ともども一方的に非難していたものでこのような事情のもとでは同被告が家庭生活の中で陽気になりえよう筈もなくその後の別居に至る経過をみると原告及び被告はるこの所為は婚姻を継続しがたい重大な事由に該るといわざるをえない。
そして夫婦双方がそれぞれ離婚を求めて本訴及び反訴を提起し、婚姻生活を回復する意思がないことが明らかであるから婚姻関係は既に破綻したものというべきところその責任は右のように夫婦の同居を厭った原告側にあるというべきであるから原告の本訴請求は理由がなく棄却を免れず、被告花子の反訴請求のうち離婚を求める部分は正当としてこれを認容すべきである。
そこで前記認定事実に基づいて被告花子の財産分与並びに慰藉料請求について判断するに同被告は結婚後婚姻が破綻するまで約一年四か月に亘り原告ら家族のため家事に従事し、また家業である織物の生産に労務を捧げ、原告方の財産形成に貢献したこと、昭和四八年における女子の年間平均賃金は統計資料によれば金八四五、三〇〇円であるからこれを一年四か月分に換算すると金一、一二七、〇六六円である。その内凡そ五割相当を生活費に消費したものとみて被告花子の婚姻期間における財産形成に寄与した労働の対価を金五六万円を下らないものと評価し同被告のために財産分与額として金五六万円と定めるのが相当である。次に本件に顕れた婚姻破綻の原因とこれに対する原告と被告はるこの加功の態様に鑑みると両名は夫婦共同生活を破壊に導いたものとして不法行為の責任を免れないから両名の被告花子に対する迫害の状況とその蒙った精神的苦痛を勘案し慰藉料としては金二〇〇万円が相当であるから原告と被告はるこは右金員とこれに対する訴状送達の翌日である昭和四九年八月一六日(被告はるこ)又は同月二〇日(原告)からそれぞれ完済迄民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。
よって被告花子の反訴請求のうち金員支払を求める部分を右の範囲で認容しこれを超える部分は失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 篠原行雄)